庚申信仰はいつ衰えたのか
庚申塔(こうしんとう)の造立は、江戸時代がピークでした(→ いつから建てられたか)。
庚申塔の歴史のなかで、そこから、どう減っていったのでしょうか。
おおまかな流れ
江戸中期〜後期 … 造立のピーク
明治 … 減り始める
大正〜昭和前期 … 続いている地域はある
戦後 … 大きく途切れる
現在 … 一部で形を変えて続いている
明治期に減った理由
① 神仏分離
・仏教系の尊格(青面金剛)を掲げにくくなった地域がある
・[猿田彦](/sarutahiko/)銘への置き換えが起きたとされる
・石造物そのものが処分された例もある
② 迷信の否定
・近代化の中で、民間信仰が「迷信」として扱われた
・学校教育・行政の側から抑制がかかった地域がある
③ 暦の変更
・旧暦から新暦へ
・[干支で日を数える](/koushin-no-hi/)習慣が生活から遠のいた
→ 「今日は庚申の日だ」と分かる人が減る
③は地味ですが効いています。
日付の数え方そのものが変わると、 行事の日を意識する回路が失われます。
戦後に大きく途切れた理由
ここがいちばん大きいです。
① 村落共同体の変化
→ [庚申講](/koushinkou/)は【村の家々が持ち回りで宿をする】仕組み
→ 人が動き、家が入れ替わると維持できない
② 生活時間の変化
→ 夜通し起きて集まる時間が取れなくなる
→ 娯楽が個人化した
③ 都市化・区画整理
→ 石塔そのものが移設・集約された
④ 世代の断絶
→ 行事の意味を知る人が伝えないまま亡くなる
①が決定的です。
庚申講は信仰であると同時に、 【村の寄り合い】という社会的機能を持っていました。
その村自体が変わったとき、講だけを残すことはできませんでした。
完全には消えていない
ここで触れておきます。
・形を変えて続いている地域がある
→ 年に一度の親睦会として
→ 食事会として
・庚申塔の清掃が続いている
・供え物・花が置かれている
→ 誰かが世話をしている
昭和期の造立例もあります。
「江戸時代で終わった信仰」ではありません。
石塔だけが残った
これが今の状態です。
・行事は途絶えた
・意味を知る人が減った
・石塔は残っている
道端の石塔を見て「これは何だろう」と調べる、 という状況そのものが、この経緯の結果です。
そして今、次の問題が起きています。
・管理する人がいなくなる
・[所有者が分からない](/shoyuusha/)
・敷地内にあって困る
信仰の衰えは、そのまま石造物の管理の問題になっています。
まとめ
- **江戸中期〜後期がピークでした。**明治から減り、戦後に大きく途切れました
- 明治期の理由は神仏分離・迷信の否定・暦の変更
- 暦の変更は地味ですが効きました。庚申の日が意識されなくなります
- 戦後の理由は4つ。とくに村落共同体の変化が決定的です
- 庚申講は信仰+村の寄り合い。村が変われば講だけは残せません
- **完全には消えていません。**形を変えて続く地域、昭和の造立例があります
- **行事は途絶え、石塔だけが残りました。**それが今の状態です
- 衰えは、そのまま石造物の管理の問題になっています